カンボジアの代名詞と言えば、アンコール・ワットといっても過言ではありません。世界遺産にも登録された巨大な石造建築で、カンボジア人の至宝です。
アンコール・ワットは、カンボジアの当時の栄光を象徴する建造物でした。国は富み、軍は強く、領土の拡大と防衛に日夜明け暮れていました。
カンボジアは紀元1世紀ごろに扶南(ふなん)という貿易国家からはじまり、次の真臘(しんろう)に引き継がれ、9世紀にアンコール朝が誕生しました。
しかし15世紀に王朝は衰退。シャム(タイ)やフランスの支配、内戦と混乱の時代を経て20世紀末に新しい王国として生まれ変わりました。
振り返ってみると、カンボジアは古代から現代まで諸外国との深い関係のなかでグローバル国家としての道を歩んできました。
それにしても、この王国はなぜ生まれ、なぜ衰え、なぜ新しい王国として再生したのでしょうか…。今回はカンボジアの歴史を古代から少し詳しくご紹介します。
原初の時代 ~カンボジア最古の人びと~
カンボジアの地で人々が生活を営んでいた最古の痕跡が、カンボジア北西部のラアン・スピアン遺跡にあります。紀元前4200年頃のものといわれ、その当時の土器が見つかっています。
また、トンレサップ湖東南の湖岸にあるサム・ロンセン遺跡でも絵の入った青銅器が見つかっています。紀元前1500年頃のものだといわれています。
その他にも遺跡はいくつか見つかっており、研究の最中にあります。カンボジアには6000年以上も前から人々が生活していたようです。
扶南 ~始まりは海とともに~
扶南(ふなん)はカンボジアの歴史において最初に語られる国です。コークトロークとも呼ばれていたこの国は当初、女王リューエイ(柳葉)によって統治されていました。しかしある時、インド人僧侶カウンディニヤが海から渡ってきたことにより歴史が動きます。『扶南・真臘・チャンパの歴史』という本に以下のように書かれています。
メコン・デルタを本拠地とする貿易国家「扶南」という国名は「三国時代」の呉の黄武4年(西暦225年)に朝貢国として初めて登場した。扶南建国の歴史は『梁書』に「伝説的に」詳しく語られている。
(中略)
タムラリピティ(Tamralipti=擔袟。現在のコルカタ=カルカッタの近く)出身のブラーマンの混填(Kaundinya=カウンディニヤ)が神のお告げで弓矢を賜り、商人の船に乗り、マレー半島を迂回してメコン・デルタの一角(カンボジアもしくはベトナム)の海岸にたどり着き、原住民の女王である「柳葉」と対戦し、神の弓の一撃で柳葉を降伏させる。混填は彼女を妻としてめとり、小王国の王となって、7人の子供を授かり、勢力を拡張し、7人をそれぞれ小国の王としたという「伝説」が扶南の出発点となったというものである。
(鈴木峻『扶南・真臘・チャンパの歴史』p19)
カウンディニヤがカンボジアにやって来ることができたのは、この頃すでに「海のシルクロード」と呼ばれる中国、インド、ペルシャ、中近東をつなぐ航海ルートがあったためです。
この後、扶南は、「海のシルクロード」に面する貿易国家として栄えていきました。
このようにカンボジアは古代から文化的、経済的にインド、そして中国とは深い関係にありました。
真臘 ~クメール人国家の成立~
五世紀から六世紀頃に、真臘(しんろう)という国が現れます。カンボジア人、つまりクメール人によってつくり上げられた最初の王国といわれています。
この国の名前についてこのような話があります。
カオンドン・ジャヤーヴァルマン王が没すると、属国の王たちがそれぞれ独立を求めて蜂起した。その時、ヴァイトボレアの地に、他の王に比べ抜きん出て勇敢なカンボジア人の王がいて、蜂起した各属国の王たちと戦ってすべてを鎮圧し、再びすべての属国を臣従させて、550年に即位し、ピアヴェアヴァルマン王と名のった。
王は国名を、コークトローク(扶南)からカンプチア(真臘・カンボジア)と変え、この国名が今日まで続いている。
(フーオッ・タット『アンコール遺跡とカンボジアの歴史』p100)
真臘の別名はカンプチアです。そしてカンボジアという名前は、このカンプチアをフランス語にした後、英語にした名前です。つまりカンボジアという国名は真臘の時代に生まれたということになります。
この国も扶南と同じく貿易国家で、扶南の属国でした。7世紀に入ってからマラッカ海峡(現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアの間)に新しい交易ルートができました。それにより扶南の勢力が弱まり、逆に真臘が勢力を強めていき、扶南を併合してしまいます。
しかしその真臘も8世紀ごろになると、貿易ルートとして河川を支配していた「水真臘(みずしんろう)」と陸路を抑えていた「陸真臘(りくしんろう)」に分裂してしまいます。
それらを統一し、一大勢力を築いたのがジャヤーヴァルマン2世です。カンボジアの一時代をつくりあげた、アンコール朝の開祖となる人物です。
アンコール時代 ~栄華と繁栄の時代~
ジャヤーヴァルマン2世は真臘の一王子として生まれました。
彼は当時、カンボジアを攻撃していたジャワ島のシュリーヴィジャヤ王国によってとらわれていました。しかし帰国に成功、逆にこの国を撃退します。やがて現在のカンボジア一帯をまとめ上げて802年アンコール朝を開きました。
アンコール朝に入ってからは、貿易だけではなく、農業にも力を入れます。「バライ」と呼ばれる貯水池や水利網をつくり、洪水を防ぎつつ水を確保することに成功し、水田が広がりました。これによる食料の増産が国を発展させていきました。
ジャヤーヴァルマン2世の後もアンコール朝は領土拡張を続けます。そして戦いで得た富を使い石造建築群をつくりました。非常に繁栄した時代で、1113年~1150年頃、スーリヤヴァルマン2世の時代にアンコール・ワットがつくられました。
1181年~1218年頃、ジャヤーヴァルマン7世の時代にも繁栄は続き、アンコール・トムのバイヨン寺院もこの時代にできたといわれています。
アンコール時代の終焉 ~内乱と衰退~
ジャヤーヴァルマン7世の没後、残念ながらアンコール朝の最盛期は過ぎ去り、ここからは内乱と衰退の時代が始まります。
国内での勢力争いや、隣国からの攻撃などで、力を失っていき、1431年頃にはシャム(現在のタイ)の度重なる攻撃によって、首都アンコール・トム一帯を放棄せざるをえなくなりました。
この時期に首都を何度か移転し、アンコール・トム放棄後の1433年頃にスレイ・サントーに移動。翌年に現在のカンボジアの首都であるプノンペン。1528年頃にロンヴァエク。1623年頃、以前に紹介したウドンとなりました。1866年に再びプノンペンが首都になるまでウドンは約200年間首都であり続けました。ウドンが古都と呼ばれる理由はここにあります。
アンコール・トム放棄後も何とか権勢を取り戻そうとしますが、かつての勢いにまでは至らず、17世紀から19世紀にかけては、シャムからもベトナムからも干渉を受けるようになり、苦しい時代となりました。
そこから脱却するために、1847年に即位したアンドゥオン王は、当時東南アジアにも勢力を伸ばしていた、フランスと手を組むことを考えたのです。
独立への道 ~フランス植民地時代~
アンドゥオン王による、フランスへの接近はシャムに情報が漏れたため一度断念され、次代のノロドム王が1863年にフランスと保護条約を結びます。
この時点ではフランスの支配は緩やかなものでしたが、1887年にフランス領インドシナ連邦に組み入れられてからは苛烈さを増していきました。
その後もカンボジアの王自体は存在しましたが、当然それらは実権に乏しいものでした。
しかし1941年に即位したシハヌーク国王がフランスからの独立運動を先導し、1953年に独立を勝ち取ります。
独立への道 ~冷戦と内戦~
1955年シハヌーク国王は王位を父であるノロドム・スラマリットに譲り、自身は国家元首となります。シハヌークは当時の東西冷戦においてどちらの陣営にもつかない中立の立場をとりました。
しかし、徐々に国内で右派と左派の対立が起き、1970年にシハヌークが中国を訪問している間にクーデターが起き、右派のロン・ノル将軍が実権を握ります。ここからカンボジアは隣国で行われたベトナム戦争に大きく関わり始めます。
ロン・ノルはアメリカを支援し、社会主義国の北ベトナムと敵対します。一方シハヌークはカンボジア内の左派グループ、クメール・ルージュと手を組み、ロン・ノルやアメリカと敵対しました。結果、ベトナム戦争に巻き込まれアメリカから空爆されるようになり、またカンボジア人同士でも戦いが始まりました。
1975年に内戦はシハヌークとクメール・ルージュ陣営の勝利で終わりました。しかし、国は疲弊しきり、食糧輸出国であったカンボジア内で深刻な食料不足が起きました。
また、次の政権をとったのはシハヌークではなく、クメール・ルージュのリーダーであったポル・ポト派でした。
ポル・ポト政権はあまりに現実離れした政策を次つぎと行い、カンボジア国内を前代未聞の混乱に陥れました。ポル・ポト政権下の3年8カ月で、カンボジアは破壊しつくされ、余りにも多くの人命を失うこととなりました。
独立への道 ~王国の再建と新生~
ポル・ポト政権はその成立直後からベトナムとの関係を悪化させ、ついにはベトナムからの攻撃を受けてしまいます。これによりポル・ポト政権はプノンペンからタイ国境に追いやられます。
このベトナムとの戦争の際に、ベトナムに亡命していたカンボジア人も一緒に戦い、そのメンバーが中心となってカンプチア人民共和国が成立しました。
しかし、この国は西側諸国から受け入れられず、またポル・ポト政権も抵抗を続けていたため、復興を難しくさせます。
事態が好転したのは、東西冷戦の終結です。1991年にパリ和平協定が結ばれ、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)が設立されました。これはカンボジアに新しい政府ができるまでの援助をする組織でした。
そして1993年、総選挙の結果、カンボジア王国が誕生しシハヌークが再び国王となり、カンボジアは完全に独立しました。
その後、カンボジアは1999年にはASEANに加盟、2004年にWTOに加盟し、国際社会に再び仲間入りします。経済面でも名目GDP約262億米ドル(2021年、IMF推定値)一人当たりGDP1,780米ドル(2022年、IMF推定値)と成長しています。
結論 ~古代からのグローバル国家カンボジア~
カンボジアの歴史はインド、中国、フランス、そして隣国のタイとベトナムなど、他の国ぐにを抜きにして語ることはできません。
カンボジアは古くから貿易国家で、交易ルートを介してインドや中国とつながり、栄華を手にしたアンコール時代においても、タイやベトナムといった国ぐにと勢力を競いました。
フランスの統治下に置かれ、それが終わったと思えば、東西冷戦に巻き込まれ、大きな傷を負うこともありました。
しかしながら、カンボジアは常に多くの国と関係を持ち、多くの国のエッセンスを吸収してきた古代からのグローバル国家であるといえます。
<参考文献>
フーオッ・タット/今川幸雄訳『アンコール遺跡とカンボジアの歴史』めこん 1995
鈴木峻『扶南・真臘・チャンパの歴史』めこん 2016
長沢和俊『海のシルクロード史―四千年の東西交易』中公新書 1989
石澤良昭『アンコール・王たちの物語 碑文・発掘成果から読み解く』NHK出版 2005
中村 元監『アジア仏教史 インド編 6 東南アジアの仏教』佼成出版社 1973
池端雪浦、石澤良昭ほか『岩波講座 東南アジア史〈2〉東南アジア古代国家の成立と展開』岩波書店 2001
上田広美・岡田知子『カンボジアを知るための62章【第2版】』明石書店 2016
地球の歩き方編集室『D22 地球の歩き方 アンコール・ワットとカンボジア 2020~2021』学研プラス 2019