「どてカボチャ!」。私のことではありませんよ。悪口にも使われるカボチャ。でもみんな大好き。カンボジアの名物スイーツ「カボチャプリン(ラパウ・ソンクチャー)」の食材です。日本には16世紀に「カンボジアから来た」とのこと。当時の日本は血で血を洗う戦国時代。世界は西欧がアジアや新大陸に乗り込んだ大航海時代。カボチャが日本にやってきた経緯について探ってみました。調べてみると味のしみたカボチャの煮物のように少しトロリとしています。
1.カボチャは1541年ごろカンボジアからやってきた。
「カボチャはいつ、どこから日本にきたのか?」。「そんな昔のことはわからんでしょ」。ですが大分県の県立図書館の情報にヒントがありました。『青葉高著作選1 日本の野菜』からの引用です。
わが国への渡来は天文10年(1541)頃といわれる。江戸時代後期の農政学者佐藤信淵の著した『草木六部耕種法』によると、天文10年ポルトガル船が豊後(大分県)に漂着し、同17年(1548)藩主大友宗麟の許可を得て貿易を始めたが、この際カボチャを献じたのがわが国のカボチャの最初としている。そしてこれはシャム(タイ)の東のカンボチャ国で産したものであったのでカボチャと呼んだ。大友宗麟(義鎮)は有名なフランシスコ・ザビエルと交わり、キリスト教の洗礼も受け、現在の大分市近くの日出の港を開港して貿易を行ない、多くの作物の種子をも導入したといわれる。
しかしこれとは別に、長崎港にはルソン島からカボチャの種子が入り、これは蕃語あるいはポルトガル語のアボブラ(Abobra)からなまってボウブラと呼ばれた。その後天正年間(1573~91)には付近の農家で栽培され、唐人やオランダ人に販売するようになった(『長崎夜話草』)。
『青葉高著作選1日本の野菜』P64
つまりカボチャは1541年ごろにカンボジアからポルトガル人によって豊後の国(大分県)に伝わった。カボチャの名前はカンボジアの国名カンボチャに由来するということです。ここから日本とカンボジアの交流がはじまったということでしょうか。
大分県別府市のWebサイトの「別府市史」には、1541年にポルトガル船が3度来航したとあります。そのなかには綿の種子が持ち込まれ、領主で後にキリシタン大名になった大友宗麟(義鎮・よししげ)が栽培を許可したともあります。このあたりでカボチャが豊後に伝わったと考えてもよさそうです。
別府市史には驚くような情報もあります。「1530年(享禄3年)、南蛮船九隻別府湾に入り府内に上陸、商法いとなむ、鉄砲、石火矢伝来」(両豊記)と記されています。
「え~‼鉄砲が1530年?」。なんと教科書の1453年より13年も早いことになります。「ほんまかいな?」。残念ながら裏付け情報がないので飲み会の持ちネタどまりですね。「また、お前のホラ話」と言われるかもしれませんけど。

2.カボチャがやって来ると時代が変わる。
カボチャの原産地は中米。8000~1万年前には食用に栽培されていたようです。人類が「イノシシがいねぇ。ハラ減った。しょうがねえな」と農耕をはじめたころですね。
運命が大きく変わったのは1492年。コロンブスが新大陸にやってきてからです。コショウを求めて大西洋を渡ってきました。
新大陸にコショウはありませんでした。そのかわりにトマト、トウモロコシ、ジャガイモ、トウガラシ、そしてカボチャなどを発見。新しい食材としてヨーロッパに持ち帰りました。
その後カボチャはヨーロッパからアジア、中国、そして日本へと渡ってきました。新大陸からやってきたにもかかわらず、いまでは「ニホンカボチャ」とよばれています。
もうひとつのカボチャ「セイヨウカボチャ」は幕末の1863年(文久3年)にアメリカから日本に到来。涼しい気候の北海道などで栽培されるようになりました。
戦国時代に来たニホンカボチャ、幕末のころ来たセイヨウカボチャ。カボチャが来るときに時代が変わるようです。
そういえばカボチャの一種ズッキーニも1980年代に日本にやってきました。その後バブルが崩壊。「あっちゃ」という人もたくさんいました。カボチャが来ると時代が変わりますね。
3.1541年ごろ世界は大航海時代。先駆者はポルトガル。
大航海時代の先駆けはポルトガル。1445年、イベリア半島をイスラムから奪いかえす「レコンキスタ」のころ。ポルトガルのエンリケ航海王子がコショウを求めてアフリカ西海岸を南下。さらにアフリカ大陸西端のヴェルデ岬を超えて現在のギニア付近まで進出しました。
「王子だからピッチピチのタイツをはいていた?」。余計な妄想です。ウワサでは王子は船酔い体質で実際に船には乗らなかったようです。どこかの上司と同じで「部下の手柄はオレのもの」だったりして。
1488年にアフリカ最南端の喜望峰に到達。1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカット(現在のコジコード)に到着。念願のコショウ獲得の道とインド航路が開けました。
1499年にヴァスコ・ダ・ガマがポルトガルに帰りつくと、翌年の1500年にはポルトガルから13隻の船団がインドに向かいました。1502年にはヴァスコ・ダ・ガマが再び20隻でインドに向かっています。「どんだけコショウが欲しいんだか」。
1510年にインドの根拠地としてゴアを占拠。1511年に東のマラッカ海峡に面するマラッカ王国を占領。その後、さらに東の香料諸島(スパイス諸島/モルッカ諸島)に向かいました。そこで丁字(クローブ)やナツメグなどの香辛料を手にしました。
ここまでくるとポルトガルのアジアでの評判もずいぶんと悪化。「最近、評判ワルいよ~。ポルちゃん」。それにもめげず、さらなる富を求めて中国へ。そして黄金の国とウワサのジパング日本へ。欲望全開、全速前進!
4.1541年ごろ、日本は新兵器の鉄砲に大狂乱。
日本にカボチャがやってきたころの1541年(天文10年)、甲斐の国(山梨県)で武田信玄が父の信虎を駿河に追放。翌1542年に未来の将軍徳川家康が誕生。少し前の1534年に織田信長、1537年に豊臣秀吉が誕生しています。1541年ごろはハナたれとヨチヨチですね。
1543年になると、種子島に中国船でポルトガル人3人が鉄砲をたずさえて上陸。世にいう鉄砲伝来です。
戦国の領主たちは、この新兵器に驚き南蛮貿易に力を入れました。大友宗麟、大村純忠、有馬晴信など後にキリシタン大名とよばれる九州の武将たちは特に熱心でした。
種子島に伝来した鉄砲はいち早く刀鍛冶が国産化。「特許権があったら大儲けなのに」。鉄砲は種子島、豊後、国友(滋賀県)、堺(大阪)など各地で製造されるようになりました。
鉄砲伝来からわずか6年後の1549年には信長が国友村に500挺の鉄砲を発注したとのこと。すごい勢い。ICBMをはじめて見てから6年後に国産で500発つくるようなものですね。「ほんとぉ~?」。前述のように、鉄砲は1543年より早くに来ていたかもしれません。
5.カンボジアにカボチャがきたのは1510年代か。
ところで肝心のカボチャの発送元のカンボジア。どうなっていたのか、これがハッキリしません。歴史の資料があまり残っていません。となると西洋の歴史資料から調べたほうがよさそうです。
カボチャがいつカンボジアにきたのかです。前述のようにポルトガルが1498年にインド到達。1511年にはマラッカ海峡のマラッカ王国を攻略。ここを起点にして東南アジア全域に、ちょっと乱暴しながら宝もの探しに出かけていったようです。
西欧の書物にカンボジアが登場するのは1511年。インドのポルトガル商館員のトメ・ピレスがアジアの国ぐにを紹介する『東方諸国記』を発表しました。カンボジアについては以下のように記しています。
カンボジャ王国 シアン(※シャム:タイ)を過ぎて海岸に沿ってシナ(※中国)へ向かっていくと、カンボジャ王国がある。この王国は上述の道に沿って行くとシャンパ(※チャンパ:ベトナム南部)に接している。その国王は異教徒で騎士(カヴァレイロ)である。彼の国は内陸に深く伸びている。この王はプレマ(※ビルマ)の人々やシアン(人)と、時にはシャンパ(人)とも戦っており、誰にも服従していない。カンボジャの人々は好戦的である。
(中略)
食糧 カンボジャの国にはたくさんの米、良い肉、魚、特産の酒がある。この国には黄金、ラック、たくさんの象牙、乾魚、米がある。
トメ・ピレス『東方諸国記』(※は筆者注釈)
数ある東南アジア諸国のなかでカンボジアの紹介はアッサリ2ページほど。コショウのような資源に恵まれていなかったことが幸いしてか、ポルトガル人もカンボジアにはあまり関心を抱かなかったようです。
この記述からの推定ですが、1510年代にはポルトガル人が日持ちのよい野菜としてカボチャをかかえてカンボジアに来ていたと考えられます。
6.カボチャだけじゃない日本とカンボジアの関係。
日本とカンボジアの関係はカボチャだけだったのでしょうか。時は大航海時代。カンボジアも日本も貿易を行っていました。
農業国のように思われているカンボジアは古代からの貿易国。紀元前から中国、インド、中近東、西欧につながる海路「海の道」の貿易の経由地でした。古代カンボジアの扶南(ふなん)の港オケオの遺跡では2世紀ごろの古代ローマの金貨が発見されています。
最初にカボチャが上陸したと思われる豊後の領主大友宗麟もカンボジアとの交易に熱心でした。1579年(天正7年)にカンボジア国王が大友宗麟に送った書状の記録が京都建仁寺の禅僧雪岑津興(せっしんしんこう)の文書に残っているようです。贈答品の返礼としてゾウとゾウ使いを送るというものでした。見せ物としては人気だったのでしょうね。
秀吉、家康の時代は朱印船貿易でした。呂宋(ルソン・フィリピン)や交趾(コーチ・ベトナム)、暹羅(シャム・タイ)、そしてカンボジア(柬埔寨)とも交易がありました。記録によると1604~1616年の間で朱印船は195隻。うち24隻がカンボジアに出航しています。
現地での滞在も必要となり日本町も生まれました。東南アジア全体で5000人ほどが在住。カンボジアには商都プノンペンと王都近くのピニャールに日本町があり約350人が住んでいたようです。
日本にいられなくなった大阪夏の陣(1615年)などで敗れて武士たちや隠れキリシタンも隠れないで住んでいたようです。
1632(寛永9)年には加藤清正の旧臣森本義太夫の子右近太夫一房が日本から祇園精舎と誤って伝わったアンコール・ワットにやってきました。訪問の記録を壁に墨書きで残しています。いまなら国際問題ですね。また徳川家光の命を受けた長崎通詞の島野兼了も訪れたとの記録があります。
しかし1633年から鎖国。島原の乱などにより1639年には交流はオランダと中国のみ、しかも長崎港に限定されてしまいました。カンボジアとの交流はここで途絶えてしまいました。
1530年代から1630年代までカンボジアとの関係は約100年にわたって続きました。カボチャ、カンボジア王との交流、秀吉方の落人、隠れキリシタン、アンコール・ワットの参詣人など、日本とカンボジアの間にはただの貿易だけではなく多くの交流がありました。
7.まとめ。カボチャとカンボジアと日本。21世紀にバイヨンでつながった?
カボチャは農耕社会がはじまったころにアメリカ大陸で栽培されていたもの。1492年のコロンブスの大西洋横断で新大陸からヨーロッパに渡り、大航海時代の船に乗りアジアへ。さらにカンボジアから船に乗って豊後(大分)に到着。戦国時代にやってきたカボチャはニホンカボチャという名前になりました。
カボチャからはじまった日本とカンボジアのおつきあい。しかもカボチャが行くところは時代が変わりつつあるところ。バイヨンでカボチャプリン(ラパウ・ソンクチャー)を食べて時代の流れを考えてみるのはいかがですか。
<参考文献>
青葉 高『青葉高著作選 1 日本の野菜』八坂書房 2000
Webサイト:別府歴史資料デジタルアーカイブ 「別府歴史年表」 https://www.beppu.biz/histo0.htm
吉永正春『九州のキリシタン大名』 海鳥社 2004
トメ・ピレス『大航海時代叢書〈第5〉東方諸国記』岩波書店 1966
ベルナール・P. グロリエ/石沢良昭・中島節子訳『西欧が見たアンコール―水利都市アンコールの繁栄と没落』連合出版 1997
池端雪浦『岩波講座東南アジア史4 東南アジア近世国家群の展開』(5.ポスト・アンコール北川香子) 岩波書店 2001
岩生成一『南洋日本町の研究』岩波書店 1996
鹿毛敏夫『大友義鎮 国君、以道愛人、施仁発政』ミネルヴァ書房 2021
金七紀男(監)『一冊でわかるポルトガル史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』河出書房新社 2025
